谷崎はここ下鴨へ移る前、1946年(昭和21年)南禅寺下河原町に居を構えています(前の潺湲亭)。その経緯については「潺湲亭のことその他」として『月と狂言師』のなかに収められています。ところで同じ本のなかに「磯田多桂女のこと」があって、祇園白川の茶屋「大友」のおかみを取り巻く文人や陶芸家などのさまざまな情景が描かれていて興味深いものがあります。同じ水辺の話として、糺の森から少し足を伸ばしてみたいと思います。
「大友」は新橋の道路整備以前にあった茶屋。奥の一間は川に張り出していて、多桂女の居間であった三畳の室の下を白川が流れていたといいます。「時には厭なお客の座敷にも出、面倒臭い帳付けなどもしなければならなかったが、それでも一日の営みを終えて自分の部屋ときまっている三畳に這入り、床下を流れるせせらぎの音を聞きながら枕に就くと、その日の労苦がきれいに洗い去られ、頭の中のくしゃくしゃが一遍にすうっと忘れ去られ安らかに眠ることが出来る」とよく云っていたとか。
現在ではすでにないその茶屋のあたりに歌人吉井勇の歌碑が建っています。
かにかくに 祇園はこひし 寝るときも
枕のしたを 水のながるる
多桂女自作の句をひとつ
筆の先ころりと落ちし夜寒かな
そして多桂女の一周忌に谷崎が手向けた歌
あぢさいの花に心を残しけん
人のゆくへもしら川の水